「情熱のコートサイド」
銀杏の木の葉が黄色に色づく中、15歳でした。私は学校の部活を探していました。久留米の筑後川の土手を隔ててあったテニスコートを訪ねました。コートでボールを打つ音の虜になりました。入部し、先輩や友と白ボールを日が沈むまで追いかけてました。筑後川の土手を走りながら見た、オレンジに色輝く太陽が川面に沈む光景が、瞼に浮かびます。
日産自動車KKの設計部に入社
テニス、そして友と過ごした5年間の青春に別れを告げて、社会人になりました。
鶴見工場のテニスに入部
週末は、日が昇るのを待って、先輩を誘って、日が暮れるまで、テニスコートで楽しみました。テニスの後は、先輩や同僚と寮で酒盛りです。
初めての公式戦デビュー
横浜市民大会で腕試し
20歳でした。アレヨアレヨの間に決勝進出、決勝では負けて準優勝でした。
オール日産テニス大会で念願の優勝
当時、日産自動車にはあちこちに、事業所が、ありました。そして年に一度、オール日産で一番を決める大会が世田谷区の荻窪の本社テニスコートで開催されてました。常に優勝は、本社のテニス部でした。入社して4年目、念願のオール日産で優勝する事が出来ました。
退社、そして、挑戦
大好きなテニスを毎日したい、もっと強くなる。それで、テニスコーチの道を選びました。
毎日が楽しい
レッスンの日々と練習そして、アフターテニスを存分に楽しみました。
29歳、新たなる目標のため、アメリカへ
目標が有りました。神奈川県選手権シングルスで、優勝したい。そこで当時世界一のコーチで有名なハーリーホップンのレッスン受けに、フロリダ州タンパ行きました。初めての海外だし、不安だらけでした。でも、もっと強くなりたかったんです。そこで、直接ホップマンの球出しでレッスンを受けることが出来ました。これは幸運でした。ボールがネット際からバックラインまで、戦後左右、容赦なく飛んできます。それも、実践的にタイミングを外されたり、緩かったり、鋭かったりの絶妙なんです。こ経験で試合で勝つための練習方法などの本質を、経験出来た気がします。私に素晴らしい宝を頂きました。
挫折
テニスから離れる決意をしました。テニスで老いていくのに、不安を感じました。そして、もともと好きだった車業界へ就職しました。35歳だったので再就職は苦労しました。持ち前の情熱で就職が叶いました。
新たな決意
会社勤めは安定はありました。しかし、なんとなく毎日が寂しい。テニスから離れて2
年が経ってました。やっぱりテニスが好き、そして神奈川県で1番になりたい。個人レッスンで生計を立てながら毎朝1時間基本練習を365日続けました。練習コートを提供して頂いた、私の恩師と、練習に付き合ってくれた、友人たちへの感謝は絶えません。
念願の神奈川県選手権優勝
37歳になってました。決勝までは、慶応大学の全日本学生のトップで活躍してる若い現役バリバリから神奈川県内の各市の市民大会でベスト4以上の戦績を揚げた、強者揃いです。決勝まで、激戦の連続、体はボロボロ試合の後の駅の階段も手すりを持たないと上がれません。そして決勝戦、何かが降りてきた。これが無心の境地かも。最後のポイントが決まった瞬間、今までのテニスで経験した事が走馬灯の現れたのを忘れません。
これからも
「55年前、テニスと出会った若き日。その情熱は今も燃え続けています。
経歴
生年月日: 1953年5月21日
出身地: 佐賀県みやき町
職業: テニスコーチ
Hi ! 末安です。
私は15歳でテニスと出会いました。
一度は会社に就職しましたが5年程で
退社し,テニスコーチになりました。
そんな私が歩んで来たテニスライフを
紹介します。
出身校:
国立久留米工業高等専門学校
経歴:
元全日本 元国体神奈川県代表
コーチ歴50年
主な戦績:
37歳で神奈川県一般男子シングルス優勝
45歳毎日選手権ダブルス優勝
東京オープンシングルス35・45歳優勝
全日本ローンコート選手権シングルス優勝
横浜室内選手権一般男子ダブルス優勝
JOP一般 最高位 59位
JOPベテ ラン 1位(45歳時)
テニス留学歴:
アメリカフロリダ州
ハーリーホップマンテニスキャンプ